ビルマのこと

ちょっと世の中のこと

2012年4月22日 (日)

ビルマのこと

体育館で映画があるというので、親父は私を自転車の荷台に乗せて、稲田を突っ切る近道を行った。広がる暗闇の中、一面の蛙の鳴き声。「明日は雨だな」と親父のつぶやき。後は自転車のきしむ音だけ。

親父はビルマ戦線の生き残り、終戦時、戦犯に問われるとジャングルに逃げ込んだ。帰還してからも、気が抜けなかった。たまたま、米兵のMPなんぞが集落を訪れ、神社の階段をこれ見よがしにジープに乗ったまま登り、社の前につけるというようなことがあると、親父は何はさておき、けものが身を潜めるように、山の中に逃げこんでいた。

そんな不安な毎日は、私が生まれる年まで続いた。その年、日本はコーンパイプをくわえたマッカーサー将軍から独立したのだ。親父にとっては二重の喜びだったに違いない。

 ビルマ戦線は激戦地で、小隊のほとんどの者が戦死し、親父一人大した怪我もなく生き残ったということもあった。親父は軽機関銃の銃撃兵で、いつも持ち運ぶだけで苦闘していた。その頃の機関銃は軽といえども20Kg近い重さで、腕に抱えて連射することはとても出来ない。地面に三脚を据えて撃つというものだったから、運ぶだけでも相当の労力が必要だった。足も届かない深い沼や川がある時には、背嚢や他の荷物と一緒に頭の上に掲げて、立ち泳ぎで渡るんだ。これは誰もが出来るというもんじゃないとよく自慢していた。性能は良くなかったようで、活躍したという話は一度もしなかった。

攻勢に出る時はいい。しかし、撤退する時は誰よりも遅くまで撃ち続け、大方の味方が逃げおおせたのを見てから、自分も逃げる。命守るためには、誰よりも速く走らなければならない。親父は「誰が機関銃を持って逃げる。そんなことしていたら、やられちまうよ。置いたまま一目散に逃げるのさ。そして、攻撃がおさまった深夜、一人で取りに戻るんだ。これが一番おそろしい」と口をひん曲げる。

巨象の大群に出くわした時に英国の囚人兵に撃退法を教えてもらった。主計担当になりお金の中で生活していた。現地の人にはとてもよくしてもらった。など、親父の戦争体験の話は尽きない。

親父は若い頃栄養状態も悪く、結核を患ったが、治療することもないまま片肺を失っていた。そして、何歳になっても悪夢にうなされ寝られない夜を過ごしていたし、神経症の心臓発作は治らないまま心臓の形が変わってしまった。いわゆる、戦争体験によるPTSDだった。

それでも、アルツハイマーになってからも6年ぐらい生きていた。88才まで生きたから、大往生だった。 今、ビルマはミャンマーと言い、アウンサン・スー・チーさんの生涯をかけた、民主化の戦いが実を結ぼうとしている。何十年と監禁され、弾圧に屈することなく、自分の信じる道をひたすら歩んで行った。父親のアウンサン将軍はビルマ独立の父と言われている。完全独立を目指して最初は日本軍とともに英国と、次には連合軍とともに日本と、そして、再び英国と戦い、最後には自国の政敵に暗殺されてしまった。その父の意思を引き継ぎ、真のミャンマー国の独立、国民の意思が反映される国づくりに取り組んで来た。そして、父子2代に渡る壮大な偉業が、今まさに実を結ぼうとしているのだ。モア・ベターね。

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